2019.04.02ブログ
けいちゃんのフラガール日記・11「ソロは気持ち良かったよ。」
※高校を中退してフラガール一期生になったけいちゃんが無茶をしながらも常磐ハワイアンセンターNO1になったぞ。
この腰ミノは白だけどけいちゃんがソロを踊るときは紺。「あたしが紺の時はまわりのみんなは白。ぜんぶ衣装係のおばちゃんたち(もちろん長屋の人)が作ってくれたんだよ。
初めは編年体で書きたかったのですがエピソードがバラつき過ぎて実にまとまらん。特にオープンしてからは時の流れが前後しまくりちよこです。この先はそんな感じで読んで下さい。
とりあえずオープン前のカッコイイけいちゃんの話。
「ギターのこうちゃん(本田好一さん)が何度も言ってたよ。稽古場にピアノが置いてあって『おけいがトレンチコートをそこにファサッと置いて、ピアノの蓋開けて赤いフェルトどけて鍵盤のどっか一つをパーンッと叩いてそのまま去っていったの。カッコイーィって思ったよ。全部弾いたらどうかわかんないけど一音だけカーーンと弾いたのがカッコ良くってオレ、いまだに忘れらんねえ』って。」
「一音だけ?」
「うん、なんかどんな音すんのかなと思って一番手っ取り早いところを弾いてみたんだと思うよ。」
「それで蓋しめないでそのまま去ったの?」
「たぶんそのまま去った。だからカッコ良かったのかな?ちっとは弾けたけどスラスラとは弾けなかったもん。」
高2で中退したばっかりのぽっちゃり娘だったのにトレンチコート持ってたのもすごいし(たしかに持ってたよ)、見てたこうちゃんもまだギタリストというよりも炭鉱のおじさん基調だったんでしょうね。余談ですがこのこうちゃんと3人シスターズのマサちゃんはのちにご夫婦になられました。
さて、当時総工費18億(推定)かけて作った常磐ハワイアンセンター。当然ほとんどが借金によるものでしょうが、オープン以来の大繫盛でなんとその莫大な借金も約3年で完済しちゃったそうです。
借金返済のメドがたったからでしょうか中村社長のセンスでしょうか、会社としての戦略でしょうか、様々な次の一手が打たれていきました。こっから先は順番めちゃめちゃです。
一つはゲストの招聘。フラガール日記の09でも触れたようにだいたい日曜日に本職の歌手の人が来るようになりました。
「あたしたちも歌ってたけどゲストが来る日は出番がちょっと減ったの。でもコロムビアの人が舞台袖にいて、マネージャーさんかなあ、ずいぶんかわいがってもらったよ。いい歌い手さん来ると『けいちゃんたちおいでおいで』って言って。」
「どんな人たち来てたの?」
「紅白(歌合戦)に出るような人から無名の人まで。」
「印象に残ってるのは?」
「杉良太郎はよく覚えてるなあ。歌手デビューしたばっかりのころ。マネージャーさんが『けいちゃんおいでおいで』て言って『この新人はいい男だから歌でデビューしたけどそのうち役者でもいくよ。よく見ときなね。』って。」
「有名になったのはNHKの『文五捕物絵図』で主役やってからだもんね。」
「そのずっと後だよね『すきま風』ヒットしたり『杉サマ』って呼ばれるようになったのは。それで、その時杉良太郎さんが舞台袖で私に言ったのよ。『君はいつまでもここにいちゃだめだよ。』って。なんかわかってたのかなぁ。」
やっぱりオープン2~3年経ってから、2、3、4期生が入って(といっても初めに地元の年頃の娘さんごっそり入れちゃったから人数はそれほどはいなかったそうですが。)人員的にも少し余裕が出来た頃から『キャラバン』が始まりました。
「専属のバスに乗ってあちこちの都市を回って宣伝のパフォーマンスをするのよ。」
「何人位で?」
「5~6人かなあ?いつもエミちゃん(豊田恵美子さん)が行くのよ。あたし行きたかったのに。いつも居残り組。プンプン。」
「本隊のハワイアンセンターも大事だったからじゃないの?」
「でも日常じゃないことってやりたいじゃん。プンプン。」
「たぶん、いや絶対幹部はこう考えた。『夜になって宿舎のホテルに帰ったらおけいは必ず抜け出す。常磐の寮から抜け出すくらいだったらふもとの湯本ととなりの平の店3軒くらい捜せば見つかるけど東京なんかだとおけいの行っちゃいそうな店だらけで捜しようがない。困る。居残り。』になったんだよ。」
「そうだね、エヘヘ。でもエミちゃんがキャラバンに行くとソロを踊れるのよ、私が。」
豊田さんは小さい頃から香取希代子先生にバレエを習っていて、学院が始まってもずっと助手待遇だったそうで、その時の優先順位がずっと後年まで残っちゃってたみたいです。
「タヒチアンのソロ、早川先生の振り付けたあのパフォーマンス。群舞の人たちは振り付けによって周りにあぐらかいてリズム取ったり、はけちゃったりだったけど、そこへソリストが出てって楽団の激しいリズムに乗って腰ミノ振って、ここぞという時に助走してグランジェテから飛び上がって両膝折って仰向けに着地。楽団も踊り手に合わせてパッと止まるのよ。キッチリ。腕を上げたこの間まで素人だった(
こっちもそうだけど)炭鉱のおじさん達が。一瞬お客さんもシーンッとなるのよ。わしら(ソリスト)が少しずつブリッジで起き上がると徐々にトエレ(リズムのパート)も始まるの。段々起き上がって音も大きくなるとお客さんも総立ち大喝采。快感だよー。」
「ソロはみんな踊ったの?」
「あたしとエミちゃんと淑子だけだよ。淑子は新体操みたいなのやってて体が柔らかかったからね。あの技はブリッジが深くて円に近い方がいいんだよ。」
「けいちゃんも出来たんだね。バスケやったり体幹きたえてたもんね。」
「ハハハ、朝飯前だったよ。でもね『フラガールズ甲子園』に審査員で来てたタヒチの先生はこの振りみて『ありえない』って言ってたんだよ仰向けに寝ちゃうっていうのは『死』を意味するとかで。」
「でもカッコイイ振りだよね。いいのにね。」
「この間の『フラガールズ甲子園』も日本人審査員しかいなかったでしょ。」
「はい。だから社長(実行委員長の小野英人氏)もベニータに審査員たのんでるんだね。(当初日本人審査員だけで始めた『フラガールズ甲子園』も何回も回を重ねるうちには本場の先生とか日本で権威のある先生を審査員に頼んでみたらしいのですがあまりしっくりいかなくて,新鮮な発想、躍動感のある振付が評価されなく、普通のコンペ(コンペティション=競技会)みたいになっちゃって『フラガールズ甲子園』と云う看板の意味がなくなっちゃう。若い人の息吹きを評価したいと。けいちゃんは毎回審査員だのえらいさんだのでお手伝いさせていただいてます。)」
「そのタヒチアンのソロを昼のステージと夜のステージで1回ずつやるんだけど、絶対夜のステージのほうが気持ちいいのよスポットライトも当たるし。でもエミちゃんが休まないから昼のステージを淑子と交代でやったの。」
「それでキャラバンの時だけ夜のステージで踊れたんだね。」
オープンから何年かたったある日けいちゃんがソロを踊るのでお父さんの喜作さんがようやく観に来てくれたのですが、
「終わったらプールエリアの『ダイヤモンドハウス』ってお店にいてねって言ったのにいないのよ。探してもいないし、当時ケータイも無いし、後で家に電話したら喜作さん、歯痛くて帰っちゃったんだと。アッタマ来ちゃったよ。」
「泊まってはいかなかったの?」
「車で1時間位だったから家族で日帰りだよ。」
「でも見に来てくれたんだからいいじゃん、ちっとだけでも。なんか照れ臭かったんじゃないの。」
「もっと前に(親戚の)渡辺のおじゅちゃんが来てくれた時は(ハワイアンセンター内で)ご馳走してあげて、後で喜作さんに報告したら『バーッカじゃねー?そんなことしなくていいのにー。』って。」
「自分が先に来たかったんじゃないの?」
「そだねー。」
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